所長とキミちゃんが会議室で個人面談をしていたはずだが、二人がぶつぶつ言いながら会議室を出てきた。聞き耳を立てていると二人の会話が聞こえた。
「困った、困った」
「所長、どうしたんですか?」
「それが、顧問先の中野工業の総務担当役員の石田さんが急病になってしまってね」
「それはお気の毒ですね。でも、所長はなんでそんなに困っているんですか?」
「実は、今月末までに助成金の支給申請をしなければならないんだ。お願いしてあった資料をまだもらっていないし、申請に向けての打ち合わせもできない」
「申請期限を過ぎてしまっては助成金を受給できませんね」
アラッ、大変。中野工業の助成金は、1年以上もかけて計画から受給まで準備してきたのに。そういえば、最近、お客様で体調を崩される方が何となく増えているような気がする。人手不足の影響で、仕事の負担が大きいのかしら。
私はノリコ。企業の人事労務を専門とする社会保険労務士だ。私自身も多くの助成金の案件を抱えているが、書類作成や法令順守のチェックなど手間のかかる仕事だ。先週も顧問先から助成金を受給したいとの相談があった。
高齢者が活躍できる会社
「ノリコ先生、実は、当社でも定年を延長して高齢者が活躍できるようにすることが役員会で決まったんです。
それで、社長が何か助成金がもらえるかどうか、ノリコ先生に伺うようにと言っていたのです。」
「そうですか。今後の労働力人口の減少を考えると高年齢者にできるだけ長く働いてもらうことは企業にとって重要な選択肢の一つですね。定年延長や高年齢者の採用により受給できる助成金は確かにあります。今村取締役、それらについて少しご説明しましょう。」
「まず、定年延長に関しては、『65歳超雇用推進助成金』があります。この助成金は、65歳以上への定年年齢引き上げや高年齢者の雇用管理制度の整備、有期契約の高年齢者を無期雇用に転換した場合に受給できます。
まず、定年年齢の引き上げですが、
- 定年を65歳以上に引き上げる
- 定年の廃止
- 希望者全員を対象とする66歳以上の継続雇用制度の導入
が条件です。この前提として、現状の定年年齢が65歳未満でなければなりません。高年齢者の雇用管理制度の整備については、人事評価制度とこれに対応した人事・賃金制度の導入や高齢者の希望に応じた勤務時間や勤務日数の設定、法定外の健康管理制度の導入などが対象となります。有期契約の高年齢者の無期雇用転換は、50歳以上かつ定年年齢未満の契約社員や有期契約パートを無期雇用に転換するものです」
「ノリコ先生、当社は、現在、定年は60歳、65歳までの再雇用制度を導入していますよね。だとすると、いずれの方法でも助成金の対象となるわけですね。」
「そうですね。ただ、受給要件として、定年延長や廃止、継続雇用制度の導入は実際に60歳以上の雇用保険に加入している従業員がいることが必要です。また、いずれの方法によるかは、御社の今後の人事政策によりますので、慎重に検討する必要があります。今村取締役、御社では以前、高齢の契約社員が若い社員とトラブルを起こして早く辞めてもらいたいとおっしゃっていませんでした?」
「そうそう、そんなことありましたね。仕事に対する考え方が若い社員に受け入れられず、せっかく技術指導をしてもらおうと思ったのですが、うまくいきませんでした。」
「万一、定年を廃止されると問題がある場合に退職してもらうことが困難になり、頭を悩ます種になります。更に、今後の人件費の問題、退職金の問題などが発生しますので、そのあたりをきちんと整理する必要があります。」
「人件費の事はわかりますが、退職金にも影響が出ますか?」
「定年年齢がありませんので、従来の退職金制度では対応できないと思います。退職金の額、支払いの時期など制度変更が必要になりますよ。」
「そうか、定年廃止はなんか大変そうですね。」
「定年廃止に限りません。現状の定年年齢を引き上げることでも同様の問題が生じます。後程ご説明しますが、その前に高年齢者の採用によって受給できる助成金についてもご説明しましょう」
特定求職者雇用開発助成金
「エッ?高齢者を採用するともらえる助成金があるんですか?」
「そうです。『特定求職者雇用開発助成金』があります。この助成金は、
- 特定求職困難者コース
- 生涯現役コースがあります。
1は、60歳以上65歳未満の高年齢者をハローワーク等を経由して採用し、雇用保険の一般被保険者であり、65歳以上になるまで2年以上雇用することなどの条件が必要です。2は、65歳以上の高年齢者をハローワーク等を経由して採用し、雇用保険の高年齢被保険者であり、1年以上雇用することなどの条件が必要です。」
「それなら、当社でも受給できますよ。どうせ定年を延長するのなら高齢者の雇い入れも考えようということになっているんです。ハローワークに求人を出せばいいんですね。」
「ええ、ハローワークに限らず雇用関係給付金に係る取扱いが厚生労働省に認められている職業紹介業者を使って求人を出してもOKですよ。」
退職金制度
「先程、退職金制度の変更が必要と言っていましたが、どういうことですか?」
「はい、人事制度全体の見直しも必要となると思います。」
「なんか大掛かりになってきましたね」
「そうですね。65歳以上の定年を前提にした人事制度や退職金制度とそれ以下の制度とは制度設計が大きく異なるからです。御社のように60歳定年の企業の場合、定年後再雇用で5年間有期雇用をしますよね。この場合、60歳時点で退職金を支払い、その後は賃金や仕事の内容など定年前の労働条件と異なる労働条件で雇用するケースがほとんどです。
ところが、定年を65歳とすると、65歳まで原則は賃金と職務内容の変更がありません。モチベーションは高いまま維持されますが、企業としては人件費の増大、ポストの不足などの問題が生じます。また、退職金を60歳で支払っていたのが65歳で支払うことに変更になると、60歳から65歳までの5年間の勤務に対する退職金を上乗せするのか、60歳までの時点の退職金にするのかという問題も生じます。
更に、支給時期の問題も生じます。60歳時点で退職金を先に支給するのか65歳時点で支給するのかです。60歳時点で退職金を支給すると、税制上、不利になることが考えられます。現実に退職していない段階で退職金を受け取ると、退職所得とされないために所得税が多額になるためです。この他にも、確定拠出年金や確定給付年金制度を導入しているのであれば、それらの規約改定も視野に入れなければなりません。」
「それは大変だなー。当社はノリコ先生もご存じのとおり確定拠出年金制度を採用していますよね。」
「そうですね、ただ、確定拠出年金制度は、規約改定により確定給付年金制度よりも対応がしやすいですよ。」
「じゃあ、今度の役員会でそのあたりも含めてノリコ先生からご提案いただけないでしょうか?」
「承知しました。御社の人事制度全体の見直しを含めてご提案させていただきます。」
「よろしくお願いします。」
「イヤーッ、ホッとしたよ。中野工業の助成金の申請が何とか間に合った」
「所長、結構バタバタしてましたもんね」
SAWAちゃんが、一応、所長をねぎらって?いる。
「大変な思いをしたから、自分にご褒美をあげないとな。よし、今日は一杯飲みに行くか!」
「誰と行くんですか?」
「エッ?みんな一緒に行くんじゃないの?」
「ノリコ先生は明日の準備が忙しいですし、私たち事務担当は給与計算で今日は残業ですよ」
「そ、そうなんだ。じゃあ、一人で飲みに行こう」
「何言ってんですか!所長は私たちのために夜食を買ってきてくださいよ!ノリコ先生、所長がみんなの夜食を買ってきてくれるそうですよー」
「所長、ありがとうございます。それでは、私は遠慮してうな重の松をお願いします。キミちゃんとノリちゃんは何にする?」
「私たちもうな重の松にしまーす!」
「所長、お聞きのとおり、うな重の松が3つと私は、ひつまぶしの松と肝焼きお願いしまーす!」
「とほほほ、今月の小遣いがなくなっちゃったよ。」